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能古島

能古島は博多っ子にとっては海浜公園のような存在。

也良岬の右手に防人たちが警固にあたったはずの志賀島、そして左前方には壱岐、対馬の防人たちがたどった玄界灘が広がっています。

今は防人たちの代わりに小さな灯台が海の安全を見守っているのです。

能古島を後にして、西に向かってみます。

福岡県を過ぎ、佐賀県に入ったところに「虹の松原」と呼ばれる風光明媚な砂浜と松原が広がっています。

この砂浜を展望できるところに、「領巾振山(ひれふりやま)」ともいわれる鏡山があります。

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昔日を偲んで

遠つ人 松浦佐用比売 夫恋に

領巾振りしより 負へる山の名


山上憶良の作と伝えられるこの歌は、新羅へ出陣する大伴狭手彦を、松浦佐用姫が山上から領巾を振って見送った伝説を歌ったものです。

恋人の大伴狭手彦を思うあまり姫は死んでしまい、その霊を弔って建てられたのが鏡山の入口にある恵日寺です。

狭手彦は伝説的な英雄で、九州の風土記には狭手彦が主人公の物語が数多く残されています。

当時(6世紀中頃)、朝鮮半島にあった日本府任那が新羅に侵されたため、勢力挽回を目的に出陣するときの、狭手彦は派遣軍の大将です。

作者、山上憶良は筑前国司として、赴任先で昔日を偲んで作ったといいます。

万葉集に見られる防人たちの歌と、その時代背景をもとに九州の道をたどってきましたが、古代といえども道を通して政治が行なわれ、そこに庶民の生活があったことは、歴史が克明に物語っています。

朝廷のあった畿内を中心に政治が行なわれていたのにもかかわらず、1200キロも離れている東国と九州がこの防人という一点で結びつけられていたのは、交通網が未発達な時代だけに不思議なことといわざるをえませんね。

防人たちが活躍した時代の九州の道

白村江の戦いののち、新羅に進駐していた唐の使者が来朝してきました。

兵士ではなく使者ですから、来朝の目的は外交にあったはずですが、当時の朝廷の目には不気味に映ったに違いないでしょう。

そのため防人たちが配置された前線基地の役割は、一層大きなものとなっていきました。

ところで、当時の九州は、どのように治められていたのでしょうか。

ここでは大宰府を中心とした当時の交通路をみてみましょう。

5世紀ごろまでの九州は「つくし」という言葉で表現され、その範囲は狭義では九州北部、広義では九州全体をさしたといわれています。

このように古代の日本では、九州でも、狭義の「つくし」である九州北部が重要視されていました。

この狭義の「つくし」には、現在の福岡県ばかりでなく、佐賀県や長崎県の一部も含まれていました。

九州に現在の県制度のもととなった国制が確立されたのは、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・壱岐・対馬の7国2島が置かれた701年のこと。

このとき九州全体を、中央の畿内に対して西海道としました。

さらに変遷を経て、前記の7国に薩摩、多ねを加え、さらに713年には日向から分離した大隅を加えて9国3島とし、824年に多徽を大隅に編入して、9国2島の九州が確立しました。

延喜式による九州の主要道

当時の九州の道となると、はっきりしたことはわかっていません。

10世紀初頭に成立した「延喜式」によれば、九州の主要道は次のようになっています。


・大路(大宰府道)

朝廷のあった畿内から山陽道を通り、豊前の北辺をよぎって博多湾近くから大宰府に至る道。

・小路

1.田河路
大宰府から豊前国府へ至る道

2.豊後・日向路
大宰府から豊後国府へ、そしてさらに日向国府へ向かう道。東路ともいう。

3.大隅路
大宰府から筑後、肥後、薩摩国府を経て大隅国府へ至る道。西路ともいう。

4.肥前路
肥前国府を経て島原半島に至る道。

5.壱岐・対馬路
筑前、肥前の海岸を経由して、肥前登望(小友)から壱岐、対馬へ渡る道。


歴史的にみても、国の制度が確立するにしたがって、交通路も政治的または軍事的に整備する必要が生じてきます。

それは、時の政治の中心地と地方の中心地、また地方の中心地と付近の各集落とを結ぷ交通路として、網の目のように発達していきます。

とくに課税の対象となる米や地方の産物を集荷し、中央に輸送することや、全国の統治、対外的な軍事的意味あいからも、交通網の整備は重要な国策でした。

大宰府は九州の交通網の起点だった

防人が活躍していた古代日本の場合もそうです。

五畿七道(五畿とは大和〈奈良県〉・山城〈京都府〉・摂津・河内・和泉〈大阪府〉の五国。

七道とは東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海道の七地方)と呼ばれる支配体制が確立するのとともに、各地に交通網が発展していきました。

特に九州は白村江の敗戦で、軍事的に過敏といえるくらいに、その警固が重要視されていました。

また、朝廷に納める九州各国の貢租は一度大宰府に集められ、それから畿内に搬送されていました。

防人が活躍した7世紀から8世紀まで、大宰府が九州の交通網の起点であり終点であったのも、そうした理由によるものです。

それ以後、大宰府と九州各地の国府を結ぶ道が発達していき、さらに各地方の中心地である国府と周辺の集落とを結ぶ生活道が発達していったと考えられます。

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生活道としての古代の九州路

現在、九州各地の産物を東京に輸送するとすれば、南端の鹿児島からトラック便を使ったとしても、中2日もあれば充分到着します。

しかし、交通手段の発達していない当時、九州各地の貢租を搬送するにはどれほどの時間を要したのでしょうか。

その一端を、国府と国府を結んだ小路別に見てみましょう。


・西路(薩摩国府・大宰府間)

1.薩摩国府~肥後国府・・・12日間
2.肥後国府~筑後国府・・・3日間
3.筑後国府~大宰府・・・1日間

・東路(大隅国府・大宰府間)

1.大隅国府~日向国府・・・12日間
2.日向国府~豊後国府・・・12日聞
3.豊後国府~豊前国府・・・4日間
4.豊前国府~大宰府・・・2日間

・肥前路

1.肥前国府~大宰府・・・1.5日間

・壱岐・対馬路

1.対馬~壱岐・・・4日間
2.壱岐~大宰府・・・3日間


朝廷に九州各地の貢租(産物)を搬送するには、一度大宰府に集荷します。

なので、ここにあげた期間は、大宰府まで搬送するのに要した期間です。

畿内の朝廷まで搬送するには、さらに要したわけで、大宰府から畿内の難波津までは約30日を要したといいます。

統治としての意味

これらのことから、天候など様々な条件が重なったとしても、筑前や筑後肥前や豊前など九州北部で30日前後要したことになります。

日向や大隅薩摩などは、40日前後は搬送に要したことになります。

これだけを見ても当時は九州北部の交通網が、南九州に比べていかに発達していたかがわかりますよね。

統治国家として道の役割はどうだったのでしょうか。

全国を統治する意味から、朝廷は各国に国府を置き、支配の目を光らせていました。

しかし、九州では南部の大隅や薩摩に国府を置いても、隼人などの朝廷に帰順しない部族がいたのです。

このため朝廷は軍を派遣、制圧して、九州統一を進めていったのです。

この軍のたどった道も、当然今まで述べてきた小路が利用されてきました。

道は中央と地方を結ぶ生活路の役割だけでなく、統治の意味からも重要なものであったのです。

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古代九州の道と現在の道

古代九州の道と現在の道との比較。

はたして古代の道がそのまま発展し、現在の道になったかという疑問は、誰もが持つものといえます。

前出の「延喜式」によれば、当時の大宰府と各国府を結ぶ道沿いに設けられた駅名(駅とは中央と地方を結ぶ連絡用に設けられたもので諸道に約30里《現在の約16キロ、但し地形・水・牧草の関係で位置は変化する》ごとに置かれた)が、当時の道の位置した場所を偲ばせています。

吉田東伍氏の現在と過去の地名の比較研究によれば、当時西路沿いの駅であった筑紫国葛野(現在の福岡県筑後市羽犬塚)、狩道(同山門郡竹海)、肥後国大水(熊本県玉名郡南関〉、江田(同江田〉は、いずれも現在の国道209号よりずっと内陸部にあることがわかっています。

つまり、当時の主要道の西路は、内陸や山間部を通っていたことになるのです。

この地域に限った話ですが、この西路の位置が、現在の九州自動車道の位置とピタリと重なっているのは、偶然の一致とはとても考えられないほどです。

このように、防人たちの古代の道は山間部や台地、川沿いに沿って発達しているのが特徴で、平野部の道が開発されていったのは、土木・治水技術が発達した後世のことなのです。

流人たちのたどった道

流刑といえば、江戸時代の「島流し」や「島送り」を思い出す人が多いですね。

殺人や強盗などの罪を犯した者、また思想犯などで死刑を免れた者を、自力で帰ってこられない遠い島に送ったのが「島流し」と呼ばれる流刑です。

しかし、流刑は江戸時代に始まったものではありません。

その歴史は古く、『日本書紀』には允恭天皇の時代にすでに見られます。

流刑も法的な処罰だから、国家としての法体系の中で規定されるのはその後のこと。

8世紀初頭に完成した大宝律令に修正を加えた養老律令では、刑罰の規定が次のように定められています。

・正刑

苔(ち)・・・細い棒で打つ刑
杖(じょう)・・・苔より太い棒で打つ刑
徒(ず)・・・拘禁して官の労役に就かせる刑
流(る)・・・配所に送って労役に就かせる刑
死(し)・・・絞、斬による死刑


この5刑のうちの「流」が流刑で、刑罰としては、死刑に次ぐ重刑であったことがわかります。

しかし、ここにあげた刑は一般人を対象とした正刑であり、官吏や僧職に就いていた者の刑は閏刑といって別扱いとされていました。

僧職にあった者は僧籍を剥奪されて流刑にされました。

流刑には常流、加役流の2つがあり、常流は労役が1年、加役流は3年の労役に就かなければならなかったといいます。

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